いつかあの羊に会いに

思い立ったが吉日

大きな栗の木の下で

栗の渋皮染液をもらったので近々染めようと思っている。



昨年からだったか、せっせと母が故郷に通って、手でイネ科やセイタカアワダチソウを引き抜いた。

栗の木が草に埋もれるほどだったのが、大きな木陰とたくさんの実をくれた今年の秋。


やっぱり草は刈るよりも、引き抜かないとだめなようだ。

ガソリン入れた草刈り機も何十年ぶりかに使ったけれど、、、けっこう草が絡まる。

なにしろ背丈ほどある。

梅の実よりも樹勢が弱くなってウメノキゴケのほうがたくさん採れそうなくらいだ。



冬の風邪や夏ばて、いろんなピンチを救ってくれたおじいちゃんの山。

山をきちんと手入れするとなんだかいいこともたくさんありそうだ。

まさに自然の恩恵。


頭で考えて、勉強して見ていただけの森林だった。

ああしなくちゃこうしなくちゃ、、と理論やニュースや遠い国のことばかり考えていた。

実感や経験を伴わずに空回りして。



梅の実を加工して梅干しという形にして食べたり、

ウメノキゴケを採って発酵させて羊毛を染めたりしていると、

体が山が喜ぶことをすこしづつでも教えてくれるように思う。

そしてこんなささやかな実感が、今小さいこどもにも伝わるといいなあ。

色についてのメモ

羊、今月末に近くの牧場で毛刈りがあることが気になる。

紫外線がよくないようなのだが、行けるかなあ。

今はよもぎを陰干ししているところ、草木染に淡いグリーンもいいけれど、
これは夏でも冷え症のときの温浴に使おうかと思っている。


ヨーロッパの糸の色合いは素敵だけれど、人工的だ。
いろんな色を混ぜて一つの色を作るらしい。
混ぜて、混ぜて、どこにもない一つだけの色ができる。
イタリアなどでは色の特許がすごい数だとか、
つい最近では日本人エンジニアの人がCG映画の色の再現に貢献したとか、、、

それに対して、自然界の色、というのは色域といおうか、明度も彩度も幅が狭い、
ということを以前習った。これは聞いた瞬間、とても意外な気がしたのだが、
自然界でほっとする、というのもこの範囲の色に限定されているから、
と思うとなんとなく理解できる気がしないだろうか。


いつか真冬のコートを買ったときにお店の人が、言っていたことを思い出す。
気象条件でもヨーロッパ、アフリカなどと日本とも色の見え方が異なること。
 緯度で太陽光線の入射角が異なることに、はたと思い当たって、つながった。
 
 勉強してよかったな、というのはこういう実践的なことと机上で学んだことがぴぴっと
現象と理論としてつながることではないかと思う。
 それはまったく偶然の出会いによってもたらされていくところがまたすてきなこと。

もともと色の見え方というのは個人差があって、ベンハムのコマというのが有名だ。
白黒なのに虹色が見えたりある色調が強く見えたりする。

もうひとつ、輝度を上げるために白いテーブルでLED蛍光灯を付けて
ご飯を食べていると、どうも太陽光の下で見る色と異なることに気づく。
なんというか、照明で食べる色がなんともまずそう。
こういうのに慣れちゃいかんなあ、となるべく自然光で多少暗くてもいいや、
ということになってきた。
字を読むのにはやっぱり人工照明でいい。

もうひとつ、病院がカラフルに元気ビタミン癒しカラーの壁になってきている。
でもこれも今一つ一時的にならいいけれど、医学医術というのは人工的な処置だろうし。
でも長いことはいられない、とつくづく感じたりする。
照度というとき、手術時の照明が一番高いということも習った。
暗くて白いコンクリートの壁に絵がかかっているというようなトーマス・マンのような
のにとって代わってきたのなら、
これも近現代化というかアート=術の進化なのかもしれない。

ピアノは打楽器

昨年、20年ぶり以上に
ピアノの調律に来てもらった。
もう祖母の形見となってしまった、
アップライト型。

その頃、子どもの習い事といえば
ピアノ、習字、そろばんだった。


そろばんの代わりに?水泳教室に通った。
夏でも冬でもいつもすぐに
唇真っ青になってしまい、
上がってサウナ室みたいなところで
休憩するよう指示が飛んだ。

それでも泳げるようになったし、
水も怖くない。
自転車乗りと水泳は同じようなもので
一度覚えると体が忘れないのだろう。




さて、ピアノを羊と森?として素敵な小説の世界を
つくった宮下奈都さんの作品紹介
の一文を読んで感激してしまった。

昨年、アップライトピアノの木箱を開けて
全部展開してその構造を説明してもらった
ときに、何かピアノというものを
根本的に知らなかったことに気づいた。

羊がここにもいる、、、そんなことを
私も思ったのだったことを思い出した。

デッサンをしてみた。

1.影を描くと、「着地しただろう?」

それまで不恰好に宙に浮かんでいたような静物が、確かにしっかり座っていた。




2.「まず、見える線から描く」
目で見たままに描くこと、頭で先入観で描かないこと

なんとなく明暗を出したくて塗りつぶしていた部分について、そんな風に。
木材の年輪、レモンの表面の点などなどが目に入る。

じっと見ていると線を発見するらしい。その物の持っている性質、性格を。



普段はりんごのキズなんで見ない、とある若者。
齢を重ねてたくさん傷ついている人と長く暮らしているせいか、
そんな言葉がとても新鮮に聞こえたのでした。


画用紙の水平と垂直の話も、数学の話とは違っていて、
天から不思議と垂直に立っている私たちと、
モノで埋め尽くされて見えない大地の水平線の交差、というのか、、



絵って見える範囲のことを扱っているはずなのに、
想像力や感情まで込みでよい、というおおらかさと
写実の厳しさがあって、不思議な土曜日の午後となりました。

梅の花見

数年ぶりに百年の仕事を継ぐ方にお会いして長年の疑問が解けた。
とても親切にあれやこれや教えてくださって、なかなか本を調べることもままならない中で有難いことだ。

次の日のサイクリングも足取りが軽い。
紅梅の濃い色にまだ咲かないのも見つけながら、陽も当たれば風も吹く日にえんやこら。

お茶を飲んでほっとすると、数年ぶりの古いお湯に浸かってから、また走らせた。

紅葉色とりどり

 最近ガタッと寒くなるので紅葉がとても鮮やかだ。今年は一段と黄色も赤も美しい。
近所の並木道も驚くような、ちょっとうれしくなるような感じでちょっと誇らしい。

12月に入って紅葉というのもなんだけれど、毎年の恵比寿様の縁日と重なる風景も珍しい。


11月の連休には梅林の手入れに行った。今年最後の草刈りになった。
ウメノキゴケは地方によってはレッドデータ種だとNHKのきょうの園芸にあった。
生け花や園芸のではわざわざこれを木に張り付けて出荷したりして風格を出すそうだ。

それでもなかなかどうして取れるものではない。二時間で一本がやっとだった。
空気のきれいなところに生えるとあったのが救いけれど、
栽培管理を見直すべし、とのこと、イノシシのつくった穴もでこぼこあって、手におえないことだらけ。

こどもの頃はリュックいっぱいに背負って帰ったのが懐かしい。
木の寿命、最盛期があるにしても、もっといい状態にして次の世代に手渡したいと思った。

でもやっぱり私は町育ちで、草刈もつる切りも慣れない道具を振り回して肩を痛めてしまった。
刃物を木に向けるのはなんだかこわい。というか台所でまな板ならいいけれど刃物はあまり持ちたくない。

ビアンキのロシアの動物作家の本に、鳥の猟のあと、猟銃を持って沼で迷子になる話があったが、
生き物に銃や刃を向ける原始的な狩猟はちょっと非日常的なことらしい。

まだ30度前後の気温、暑い。先週近くの公園に行くとイチョウ並木が黄色に染まりつつあった。黄緑より黄色より。
銀杏の実も落ちているところもある。
ちゃんと秋だった。

ワタヘリクロノメイガ

ゴーヤを食べていた幼虫に白い線があって思い当たる。
毛玉のような黄色のポンポンをふりふりしながら飛んできた。

透明な羽と黒いフチがちょっとおしゃれだ。